前回「神は細部に宿る」という言葉の意味についてお話ししました。
今回はその続編として、ではどうすれば神を細部に宿らせることができるのか、その方法についてお話ししようと思います。
このように言うとこんな疑問を持つ人もいるのではないでしょうか?
「おいおい、本当にそんなことできるのかよ」
「才能とかセンスの問題でしょ?」
「何かテクニックがあるのか?」
ご安心ください。
私が考えるその方法とは「時間をかける」ということです。
どうでしょう?
拍子抜けしましたか?
しかし時間をかけずして細部の隅々に至るまで作者の血が行き届いた作品はできません。
確かにアイディアを得る段階では時間をかけての熟考よりも一瞬のヒラメキが重要な場合もあります。
天啓のように素晴らしいアイディアが頭に浮かび、ポンポンポンと考えが発展する。
「そうだ、この線で行こう」という確信が持て、一気呵成に作り上げる。
そのようなことはあるでしょう。
そこで「よし、完成だ」となるのですが、ちょっと待ってください。
それは雑な完成品です。
実はまだ完成などしていない。
完成させるには「神を細部に宿らせ」なければなりません。
そのための方法が「時間をかける」ことなのです。
「完成した」と自分が思った時、たいてい完成してはいません。
それは「土台ができた」「下書きができた」ということなのです。
そこからが本当のスタートで、時間をかけなければならないのはここからなのです。
「ただ時間をかけさえすればそれでいいのか?」
「細部をもっと輝かせるために、うんうん唸りながら試行錯誤すればいいってこと?」
そんな風に思う人もいるでしょう。
私の答えは「はい、そうです」になります。
無責任に聞こえるかもしれません。
時間をかけさえすればそれで良いというのは言い過ぎになるでしょう。
しかし時間をかけずに時間をかけた場合と同様の結果を得ることは不可能だと考えます。
ブドウを収穫してきてジューサーにかければすぐにブドウジュースはできるでしょう。
しかしすぐにワインにすることができますか?
発酵や熟成には時間が必要なのです。
1つ具体例を挙げてみます。
私は何かを作っている人間ではありません。
しいて言えばこのようなブログの記事を書いているくらいです。
ですので記事の作成を例にお話ししてみようと思います。
実は上に挙げた「時間をかける」という方法は「私のやっている方法」に過ぎません。
それを一般化して普遍の真理のように語っているのですから大それたものだと思います。
しかしながら、私にはこの「時間をかける」ことが唯一の、いいですか唯一のですよ、確実に効果のある方法なのです。
時間と完成度がきれいに比例していくわけではありません。
しかし時間をかけ過ぎたせいで逆に悪くなるということもありません。
ただ以下のような点には注意が必要です。
「考え過ぎたせいでかえって小難しく理解しにくいものになった」
「初期の粗削りだけれど勢いのあった魅力が色あせた」
「手を加えていないがゆえの新鮮味が失われた」
しかしこのような時間をかけたことによる弊害も、さらに時間をかけることが最終的に解決してくれるのです。
時間をかければかけるほど良くなります。
さて時間をかけて推敲を続けていくと、どこかの時点で限界を迎えることになります。
本当は限界などないのかもしれませんが一生やっているわけにもいきません。
ですので自分で区切りをつけなければなりません。
「もうこれ以上時間をかけても変化は期待できないな」
「今の自分にはこれが精一杯」
「読点を付けるか付けないかで迷ったところで読者は気付きもしないだろうよ」
このような考えが浮かんできたら区切りの合図かもしれません。
ただしこの区切りを乗り越えてさらに続けると、実は先ほど区切りだと思っていたところはそうじゃなかったのだと気づく時もあるのです。
そして区切りの合図に対する忍耐強さは人によってかなり違うと思います。
人と比べるすべがないので分かりませんけどね。
ということで「時間をかける」ことを私が重視しているのをご理解いただけたと思います。
えっ、私のこの記事はどれだけ時間をかけているのかって?
それは聞かないでくださいよ。
ごめんなさい。
この記事はある時刻がきたら強制的に区切りとしております。
未練たっぷりなのですが、やむなく終了です。
泣く泣く終わりにしているのです。
「もっと良い記事にできるのに」って悔しがりながら。
会社に遅刻しちゃうのでね。