「荒川光のブログ」の下書き

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甲子園で慶応高校の清原選手が大声援を受けたことについて

 

少し古い話題になりますが話させてください。

 

2023年夏の高校野球大会で慶応高校が優勝しましたね。

そして慶応高校の試合の中で清原和博氏の次男である勝児君がバッターボックスに立った時にスタンドから大声援が送られたことはご存知の方も多いと思います。

 

私は高校野球はまったく見ていなかったのですが、この大声援についてニュースで知りました。

 

あの声援の理由は一体何だったのでしょう?

どうして彼に対してだけ特別な声援が送られたのでしょう?

みなさんはどのように解釈しておられますか?

 

私の見解はこうです。

あれは勝児君のお父さんである清原和博氏への声援だったと。

それもかつてのスター選手である清原氏へのそれではなく、別の闘いを続けている現在の清原氏への声援ではなかったかと思うのです。

 

清原氏が自分自身との苦しい闘いを続けていらっしゃるということは周知のことです。

私も報道によって浅い理解ではありますが耳にしていました。

まだ完全に勝利したとは言えず、苦しむ日もあるとご本人が述べていらっしゃるのを聞いたこともあります。

 

そして私はそんな清原氏を応援しています。

「どうかこのまま闘い続けてついには勝利を勝ち取ってほしい」

私にとって彼はまったくの他人ではあるのですが、そんな気持ちでいます。

 

ところでそんな気持ちを清原氏に伝える方法があるでしょうか?

お便りでも送りますか?

「応援しています」「頑張ってください」と。

 

そんな自分のことを棚に上げての上から目線の応援なんか、私にはとてもできません。

 

清原氏の闘いの苦しみは私などには到底理解できません。

酒もやめられない、甘いものも食べちゃう、何をやっても三日坊主の根性なしの私があの清原氏に向かって頑張れだと?

 

「お前が頑張れよ」

「お前なんか何も頑張っていないだろ」

と自分で自分を笑いたくなるでしょう。

 

そんな私が自分の気持ちを清原氏に伝える方法があるとすれば、それは勝児君へ声援を送ることです。

 

こんなことを言うと違和感を持たれる方もいらっしゃるでしょう。

私自身もある種の違和感を拭いきることができません。

お父さんはお父さん、勝児君は勝児君という別人格の人間なのに、それを一緒にして考えるのはおかしいと私も思います。

勝児君に対しても失礼な態度かもしれません。

勝児君を勝児君として応援するのが本当の姿だと思います。

 

でももしも私がその時甲子園のスタンドにいたとしたら、私も勝児君に大声援を送ったに違いありません。

「勝児君を越えて、この球場のどこかで見守っているはずの清原氏にも届け」という気持ちで。

 

私のまったく勝手な想像ですが、清原氏はもしかしたら「自分がしてしまった過去の行動のせいで息子が不本意な思いをすることがないだろうか」と心を痛めることがあったかもしれません。

それが実際にどうであったのかは勝児君に聞いてみるしかないのですが、私はあの大声援のニュースを知って安心しました。

清原氏もきっと安心されたことでしょう。

 

実際氏は自身のXでこう語っていらっしゃるそうです。

「今年の夏の甲子園、息子の優勝は、自分の時より遥かに嬉しいものでした!」

「あの熱い声援は一生忘れません。ありがとうございました」

と。

 

勝児君への声援が清原氏に対して「私たちは今のあなたを肯定しています」というメッセージになりはしないか?

そしてもしも将来、清原氏が闘いに苦戦して心が折れそうになることがあった時に、あのスタンドでの大声援を思い出してくれたなら。

私たちの声が清原氏の力になることができるのではないか?

そんな気持ちで多くの人々があの声援を送ったのではないかと想像するのです。

 

「甲子園は清原のためにあるのか」という言葉は、かつて球場を沸かせた清原に対してのものであると同時に、いやそれ以上に、今の清原さんに対してこそ使う言葉ではないかと思います。