「荒川光のブログ」の下書き

メモ・所感・備忘録・日記・ブログの下書き

記事のリライトってした方がいいの? 迷ってますって話

 

ブログを書いている方にお聞きしたいのですが、過去の記事のリライトはされてますか?

 

私はするべきかするべきでないのか迷っています。

今日はそんなリライトについて考えていることを書いてみようと思います。

 

した方が良いという意見はよく聞きます。

「した方が良いどころか絶対にするべきだ」

「必須の作業だ」

とまで言う人もいるのです。

 

なるほど、そうですか。

 

確かに時と共に社会は変化します。

法律だって改定されます。

価値観だって変わります。

 

そのような変化に柔軟に対応し、過去の記事をアップデートしていく必要はあるでしょう。

何かのデータを表示するような、毎年最新版を出さなければならないジャンルだってあります。

 

ところが私が書いているような日記のような類のものはどうでしょうか?

後で読み返した時に「もっと適切な表現があったのにな」とか「この言葉はちょっと違うんだよな、書き直したいな」と思うことがしばしばあります。

そんな時に書き直しても良いのかということで悩んでいるのです。

 

「なんで悩む必要があるの?」とお思いでしょうか?

例えばですね、誰かがその記事を読んで気に入ってくれたとしましょう。

記事にスターを付けたりコメントを書いてくれたりしたとしましょう。

その記事をその方に許可なく変更しても良いものかということなのです。

 

変更後の記事にはその人のお気に召さない表現が含まれていて「初めからその記事だったらスターを付けなかったよ」という場合だってあるかもしれないのです。

 

そもそも日記のようなものはその時の素直な感情をノートに書きなぐるようなもの。

本来他人に見せることが目的ではないので出来栄えを意識する必要もないのです。

押入れの奥で埃をかぶっている思春期の頃に書いた日記があるとします。

それを定期的に引っ張り出してきては読み返し、今の自分には納得できない文章だといって修正テープで消して書き直す人がいるでしょうか?

 

「あの頃は未熟だったなぁ」とか「こんな考え方をしていたんだなぁ」と懐かしく思ったり、時には恥ずかしさで穴があったら入りたいような気持ちになるのも過去の自分と再会できたからなのです。

 

しかしリライトするという作業は過去の自分を現在の自分が上書きしてしまうということ。

そして何十年も経てば現在の自分は当時の自分とは半ば別人であるといってもいいでしょう。

つまり日記に関して言えば、リライトとは当時の自分の思いや感情を他人に修正されることにも似ていると思うのです。

 

いくら成長と共に自分の語彙力が増え表現力が豊かになっていようとも、その当時を生きていた人間が書いたものを「改善してやろう」とばかりに手を加えることは傲慢ではないでしょうか?

 

時の流れにともなって社会全体で使われる言葉自体も変化していきます。

私の小学生時代は今から40年も前になりますが、その頃には最近耳にすることのある「ぶっちゃけ」とか「ほぼほぼ」などというおかしな言い回しはありませんでした。

そのように当時は使われていなかった言葉をリライトによって差しはさんでしまったら、もう日記ではなく人工的な創作物になってしまいます。

 

山田かまちがもし自分のノートを修正したいと今言い出したとしたらどうでしょう?

「そのノートを読んだことのある人全員に許可を取ってくださいよ」

「変更点はこことここだと明示してください」

「初版のものは初版のもので残しておいてください」

と言いたくなりませんか?

 

「いや、オレのノートなんだから焼こうが捨てようが修正しようがオレの自由だよ」

と言い返されるかもしれません。

もちろんそれはそれで正しいのでしょう。

しかし一度自分の手を離れて公のものになってしまえばそれは公共の財産であって、その作者であったとしても勝手に手を加えることはできないのではないか?

法律的にどうかということではなく道義的な意味でです。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチがとても長生きして、今も生きているとしましょう。

そして今年571歳を迎えた彼が「モナ・リザ」にちょっと気に食わないところがあると言い出した。

少し修正すると言ってルーブル美術館から自分の絵を持ち出そうとしたらどうでしょうか?

「ちょっと待て」とならないでしょうか?

「歴史が変わってしまう」

「少なくとも美術の歴史は絶対に変わる」

そう言い切っても良いでしょう。

 

また自分では改善したつもりが人によっては「うーん、どうだろう」と思うケースもあります。

例えば長渕剛は「乾杯」を発表した後、別バージョンでレコーディングし直しております。

改訂版「乾杯」が正規品のイメージですが、私などは技巧を凝らしてひねくれたような歌い方をしている改訂版よりも、素直で伸びやかに歌う初版の方により好感を持っています。

ただ初版を上書きしたわけではなく初版は残したまま別版も出しているのですから良いのです。

私たちは両方を聴くことができるのですから。

 

ここまでの考えをまとめてみると、リライトにあたっては「上書き保存」は許されないが「コピーを修正」ならば可能であると言えるでしょう。

しかしブログ記事のリライトは「上書き保存」にあたります。

そのリライトの過程は読者には分からない。

 

プログラマーなどが利用する Git(ギット)のような、変更履歴を記録しバージョン管理ができるようなソフトを使えばいいのかもしれませんが、そこまでする必要はもちろんないでしょう。

 

ですのでこっそり、少しずつ修正を加えていって品質を上げていくことも可能ではあります。

しかし美容整形に手を出した人が「ここも」「そこも」「あそこも」と言ってやり続け、終わりの見えないループに陥ることがあるようです。

それと同様に記事の品質を上げようという慎ましやかな努力には切りがありません。

気が付けば「元々猫のことを書いた記事だったのにいつの間にか相対性理論の話になっていた」とか「仮想通貨の記事になっていた」などという珍事も起こりかねません(起こらないけどね)。

 

一度公開した記事はもう自分の手を離れてしまって自分に制御することはできないと考えた方が良いのではないかと思うのです。

一旦産声を上げてこの世に生を受けた記事は、もう自分の手の届かないところに行ってしまったのだと考える。

どんなに後悔の残る記事であっても、恥ずかしくて取り戻したい記事であってもです。

「覆水盆に返らず」という残酷でありながら人生の心理を突いた美しい言葉を思い出すようにしています。

 

そんなこともあるから私はいつも自分に言い聞かせています。

「公開する前によく確認しろ」

「本当にこれを公開していいのか」

「責任を持てるのか確信を持ってから公開しろ」

と。

 

そうすると怖くなって滅多に更新することができなくなってしまったのが「荒川光のブログ」という私のメインブログです。

 

そんな不満を解消するためにこの「下書きブログ」を作りました。

下書きなんだから気楽に投稿していくよというつもりで。

しかしこのブログでさえリライトするかしないかで悩んでいるようでは、「下書きの下書き」とか「下書きの下書きの下書き」というようなマトリョーシカ状態になってしまいそうです。

 

さぁ今後私はどのような方針でブログを運営していけば良いのでしょうか。

このブログにおいても明らかな誤字の修正は2、3おこないました。

いくつか字句を改めたものもあります。

 

おそらく大多数の方は「直したいところがあれば直すし、そうでなければ直さない」というシンプルな考えではないかと思います。

それが至極真っ当な考え方なのかもしれませんね。

 

初投稿日の横に最終更新日を記載している記事も見かけます。

自分でも納得できる良い方法を模索しているところです。

また考えがまとまったら別の機会にでも書いてみようと思います。